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セラピストメグミの人生

セラピスト【めぐみ】の人生を紹介

セラピストめぐみの人生

私は現在41歳、女性です。

東京都在住の主人、子ども3人と暮らしています。

私がどのような人生であるか、今までの道のりをお話していきたいと思います。

セラピストがどんな人かわからないとちょっと躊躇してしまいますよね^^

セラピスト紹介ページに書けばいいのかもしれませんが、子どもたちには見られたくない一面もたくさんあります。

書こうかどうしようかと思いましたが、現在同じような環境で苦しんでいる方や同じ思いをした方、少しでもあなたに私を知ってもらいたいから書いていくことにしました。

アメブロ
には細かい生い立ちを書きましたが、私は16歳より前の記憶があまりありません。

そのためこちらのページではおおむねアメブロに書いた後の、17歳くらいからのお話がメインになります。

よかったらアメブロも見てみてくださいね^^

ちなみに…人の記憶というものはとてもあいまいなものです。

自分がこうだった、と思っていても実際は複数の記憶が混ざったり改ざんされているものもあります。

そのため一部事実とは異なる部分もあるかもしれませんのでご了承ください。(そして長いです💦)

 

6歳ごろまで

私は神奈川県の横浜市で生まれました。

父が勤める会社の団地に住んでいました。

このころの記憶はありません。

団地だった、ということくらいで生活をどのようにしていたのかなどは覚えていません。

父は私が起きているときはほぼいなかったような気がします。

覚えていることは母も働いていたので小規模の保育園に預けられていたこと、いつもお迎えが最後だったこと。

もう一人の子が同じように最後まで残っていていつも二人で遊んでいたような。

残念ながら楽しい事は覚えていませんね。

 

小学生時代

保育園は小規模で、普段遊ぶ相手も決まっていたため私の世界は自分が思っている以上に小さかったようです。

小学校に入学したとき、たくさん人がいて驚いた記憶があります。

知らない子ばかり、私は戸惑いながらもうまくやろうと思いましたが子どもというものは残酷なもので、私の容姿をからかう子がいてからかわれる私を見て笑っている子がたくさんいました。

当然私は学校が嫌いになりました。

そして、自分のことも、大嫌いになりました。

まもなく団地から引っ越しすることになりました。団地からそれほど遠くない学区が変わらない場所でした。
小学校に上がる前に引っ越したのか、そのあたりは定かではありません。ただ、6歳の時だったと記憶しています。

引っ越した先はとてもボロい平屋のトタン屋根の家。近所に大家さんが住んでる、今もたまに見かけますが長屋が半分で区切られてて2世帯が住むような感じのおうちですね。

そのおうちはいわゆる居間ともう一部屋がありその間の通路が台所やトイレ、お風呂になっているという仕組みのものでした。

途中から変わりましたが最初はボットン便所で怖かった。

そして全体の立て付けが悪くお風呂のドアは閉まらない、部屋のドアのノブをまわしても開かない(包丁などを使ってハマってる部分を上げてドアを開ける)そんな家でした。

こんな家イヤダ、と思うと同時に、父を見なくなりました。

もともと私が起きるより前に家を出て寝てから帰ってくるような感じだったようですがそれでも気配とかわかりますよね。

いないんです。父が。

母に聞きました。

「お父さんはどこへ行ったの?」

母はこう答えました。

「お父さんは単身赴任で別の所で暮らしてお仕事に行っているのよ」

タンシンフニン?なにそれ?と思いましたが私の母は都合の悪い事や教えておくべきことなどを教えるタイプの人ではありませんでした。(教えてくれないけどできないと怒るタイプ)

そしてお父さんがいなくなったと同時に家に男の人が来るようになりました。

こどもながらに違和感を覚えながらも、母がいう「その男性はお友達」という言葉を信じて私は仲良くしました。

私には7歳上の姉がいますが姉はすでに思春期であったためきっと辛い思いをしたのではないかと思います。

ですが友達ではない、と子どもでも気が付くものです。

だけど父は?子どもの知識では整理できるものでもなく。

母はどんどんその男性を優先するようになり、思春期の姉は空いている部屋をあてがわれていましたが思春期はつっぱっているということもあり私を煙たがりました。

母も姉も帰りが遅く、私はいつも一人でした。

当時はゲームは出始めで家にありましたが、ゲームだって飽きるものです。一人なので。

妄想が友達、みたいになっていきました。

私はどんどん自分が必要とされていないのだと感じるようになり、小学校1年生にして

【自分は何のためにこの世に生まれてきたのだろうか】と考えるようになります。

学校では相変わらず意地悪をされます(いじめがどこからなのかというのもありますが嫌なモノは嫌ですよね)

学校にも行きたくなくて学校をさぼって公園にいたりしたこともあります。

サボっていたとバレて殴られることもありました。

母はヒステリックな性格の人でよく手を上げられました。

そしてなにより、こちらの話を聞いてくれませんでした。

何か言うと殴られると思うようになった私は人に意見ができない性格になりました。

今となればわかる気持ちもたくさんあるんですが。当時の私にそんな事情などわかるはずもなく。

小学校生活は教わっていない事に驚くことも多く、人付き合いがうまくできないまま、進んでいきます。

私はどうしても母の言い分が嘘ではないと信じたかった。

だから周りが何を言おうと、家にいる男性との関係がなんであろうと、父は単身赴任しているだけなんだと思い込もうとしました。

そして父にも会いに行ってました。

ところが6年生になった時、泊まりに行った父の家には女性がいて、料理を振る舞ってくれました。

私は最悪の想定をしながらも何事もないかのように振る舞いました。

夕食後父と散歩(確かコンビニかなんか行った)しているときに父が言った言葉は今でもその言葉の音だけを鮮明に覚えています。

「なぁ、あの人(女性のこと)はお父さんの新しいお嫁さんなんだよ。お前何とも思わないの?」

そのあとの記憶がすっかり抜けるほどにこの言葉は私にトドメを刺しました。

例えるならば私の心の中はずっとグラグラしたジェンガのような、危うい積み重なり方をしていました。

いろんな出来事を必死でフォローして、両親は離婚していない、母は嘘をついていないと。

ですが父の言葉で心のジェンガは崩壊してしまいました。

これまでしてきたフォローも、信じる心もすべて消えてしまったような気がしました。

消えた代わりに出てきたものはおぞましいまでの憎しみと嫌悪感でした。

母はずっと私をだましていたのか…と。

そしてもう二度と父の元は尋ねまいと心に決めたのでした。

そんな気持ちのまま小学校生活は終わりを迎えました。

 

中学校時代

私の中では中学校は世界を変えるきっかけにしたいものでした。

生徒が増えますからきっと良い方向にやり直せるかも、居場所が作れるかも、と。

たしかに仲良くできる子はできました。少数ですが。

ですが1年生のときにいじめに遭いました。

小学生とは違ってもっと陰湿なもの、明らかにいじめだと言えるものです。

私はまた学校に行かなくなりました。

ですがサボれば怒られるし殴られるわけです。

だけど理由は話したくなかった。

いままで何を話そうとしても「またわけわかんないこといって」と聞いてもらえなかったからです。

何を言っても否定されていたら話す気も失せます。

なにより私はすでに母を強く恨んでいました。

あまりにも問い詰められたのでいじめの話をしました。

すると母は

「転校する?」

と聞いてきたのです。

どうせ母が私を怒るだろうと、そんなことでというだろうと思っていたので私は驚きました。

寄り添ってくれたことに。

その後は担任の先生と話をしたりなどして解決に向かったので転校はしませんでした。

そして中学校生活が期待できないと感じた私は未来への妄想を始めます。

よくわからないまま生きてきたことによって成績もよくなかったので中二の二学期から塾にも通わせてもらいました。

塾に通う事で私の生活が変わっていきます。

勉強に打ち込むことで寂しくなくなりました。

幸い塾に通うとき一緒に行ける友達がいたことが大きかったと感じます。

塾というのは夕方から夜なので帰ったらお風呂に入ったり寝る準備をすればよかったので母と接触しなくて済んだのです。

接触しないことが一番自分の心の安定をはかれると思っていました。

勉強に打ち込んだことで成績も上がり、私はやっと少し自分を認めることができました。

中3にもなるとまわりの生徒も大人になってきます。

普通に会話できることも増えてきました。

そして彼氏ができて、私の人生は充実し始めたという喜びを感じるようになりました。

始めてできたこの彼氏で私の人生はまた一波乱起こすわけですが彼氏についての詳しくはアメブロを読んでください。

自分が志望した高校にも推薦入学でき、私は未来へとても希望を持っていました。

 

高校時代

高校生活を始めたばかりの時は授業もとても楽しく、友達もできて楽しかったです。

ですが家のほうはいよいよ母との関係が悪く、悪かったというか母への憎悪が膨らんでしまいました。

愛情を確かめたいという理由から彼氏にも無理難題を押し付けました。

今思えば、自分が存在していいのか、ということを確かめていたんだと思います。

何か言われても「今更母親ヅラするな」としか思えず。

希死念慮も抱くようになり、無気力になり、学校へも行けなくなりました。

もう自分が存在していることを自分が認められませんでした。

頭ではわかってるんです、自分にも至らない点はたくさんあること、自堕落なこと。

だけどすべて母の行いのせいだと思っていました。

こんな人から生まれたから、こんな家に生まれたから、私はこんなふうになったと。

何で子どもは親を選べないんだろうと。

「産まなきゃよかった」というならなんで産んだんだよ、頼んでないよと。

ニュースで流れる親を殺した子の話題に、【明日は我が身】と震えました。

どうしたら楽になれるの、もう終わりにしてしまいたい、そんなことばかり考えて。

そしてある日自殺未遂をして精神科に入院しました。

目が覚めた時私には過去の記憶が全然ありませんでした。

あるのは頭全体を占めるほど大きな殺意と憎悪だけですごく怖かったです。

あんなに頭を支配されたと思ったことはいままでにありませんね。。

楽しかったこととかすべて消えてるのに憎悪だけが占有するなんてことは今後もないと思います。

入院は嫌でしたが、同時に入院していてよかったと思いました。

傷つけられるものを手に入れることができなかったので。

即日家に帰っていたらとおもうとゾッとします。

その後入院生活で私は自分のおかしさに気が付きます。

退院してからは母と二人暮らし(姉は結婚していたので家にはすでにいませんでした)

私は自分の人生がもう終わったなという気持ちを抱え、かといってもう死ぬのは諦めていました。

母ともあまり会話をしませんでした。

母は私の気持ちに気が付いていたようです。

だからか、そっとしておいてくれました。

彼氏との関係も終わりに近づき、私はただ逃げ道が欲しくて彼氏を作ったんだという事に気が付いたりしました。

しばらく、どのくらいか忘れましたが休養を取り、その後学校に行き始めました。

幻覚を見るほどひどかった鬱もだいぶ良くなっていました。

何かが解決したわけではないけど、私の人生はたぶん輝くことはないんだな、という気持ちで月日はすぎていきました。

 

18歳以降

私は18歳の時に友達のおうちの手伝いといった名目でホステスの仕事を始めました。(キャバ嬢って言うほどの規模じゃないのでホステスです)

そこでは母が本業のほかに手伝いでキッチン係をやっていました。

ある日人がいないから来いと言われてしぶしぶ行ったのをきっかけにちょびちょび手伝うようになりました。

最初はなんでこんな人のために自分が手伝わないといけないんだ、とかいろいろ思いましたがこの経験は私と母の関係を大きく変えました。

私は母の外面を初めて見たのです。

もちろん向こうもそうだったでしょう。

外の母は私が知っている母ではありませんでした。

とても面倒見がよく、よその男性からお母さん、と言われるような人でした。

お客さんの一人から言われました。

「あなたが娘さんか、お母さん、とても悩んでいたんだよ。たまに泣いたりしてさ。すごく君のこと心配していたよ」

私には涙どころか憎まれ口しか叩かない人。そんな言葉をどうやって信じろと?と思いました。

ですが日を追うごとに母の頑張りも理解できるようになっていきました。

そして当時付き合っていた新しい彼氏は大変な境遇の子で両親もいなかったのでそれでも頑張っている彼を見て反省をしたりもしました。

母との仲はだんだんとほぐれていきました。

私ももう私の人生を生きなくては、と心の整理をつけられるようになってきました。

 

20歳以降

その後ホステスをしながらお付き合いする人も変わっていき、20歳のときに結婚しました。

子どもができたからです。母に恐る恐る妊娠したこと、結婚したいことを告げました。

(きっとまた否定される)恐る恐る告げた私に母は「うん、わかった」と言ってくれました。

受け入れてもらえたことにとても驚き、そしてとてもうれしかったのを覚えています。

私には夢があったのですが、自分の家族ができるためならそんな夢捨てたっていい…そのくらい自分だけの家族が欲しかった。

だから結婚しました。

ところが、すぐにほころびが生じるようになります。

彼は地方出身者で寮生活をしていたのですが結婚後一緒に住むようになってからいろんなことが見えだしました。

・働かない(仕事が安定しない)
・非常に粗暴で暴力をふるう
・ギャンブルで生活費まで使う
・浮気

寮生活はいろんなマイナス面を隠してくれていました。

デート中くらいは猫かぶれますもんね。

喜ばしいはずの自分だけの家族。

こんなはずじゃなかった、そればかりでした。

心底結婚前の同棲とかは必要だ、と思いましたね。

生まれてきた子はかわいいはずなのに、自分が働かないといけない、暴力を振るわれたくない、いろんな気持ちが渦巻いて子どもに目を向けられませんでした。

唯一彼のいいところはとても子煩悩なことでした。

子どもにだけはどんなときでも優しくて猫かわいがりでした。

姉夫婦にも親戚にも、散々迷惑をかけました。

DVって受け続けると思考がうまく回らなくなります。

そのうち殴られても抵抗すらしなくなります。

なぜなら抵抗した分だけ長くなりますから。

殴られながら幼少期の自分を思い出したりして、そして我が子に円満な家庭を作ってやれなかったという気持ちをぼんやり感じたりしていました。

ただ私は、過去に鬱になったりした経験からなのか、もともとの性格なのか、このままでは終わらない、寝首を掻いてでもこの状況から抜け出してやるという気持ちを強く持っていました。

浮気相手の女の居場所を突き止めて訴えたこともあります。

私は水面下で離婚に向けて動き出します。

離婚届けは何度渡しても破られました。

そしてもめるたび、暴力もエスカレートしていきました。

そして子どもが2歳になったある日、彼は私に馬乗りになり首を絞めてきました。

ケンカからの暴力がエスカレートした状況でお前なんか殺してやると…

馬乗りなので避けることもできず、喉を押しつぶしてくる指の感触を感じながら、私は自分が聞いたことのない声が音になって漏れてくるのを聞きました。

その時にもう助からないな、という思いが頭をかすめ、近くにいる子どもに対しこんな場面をもっと大きい年齢で見せなくてよかったとか、子どもに申し訳ないなとか、自分の人生はこれで終わるのか、、など考えながら力を抜きました。

私が脱力したことで彼は私が死んだと思ったようで、突然飛びのいて頭を抱えて混乱しだしました。

まあ、自分が人を殺したと思ったら、きっとそうなるのかもしれませんね。

私は自分の身体が自由になり、彼が混乱しているのを見てそのまま家を飛び出しました。

子どもを連れて出たかったのですがそういったことをしたら次こそは私は死ぬだろう、という確信がありました。

少なくとも彼は子どもだけはかわいがっているし、何よりももう私とのいさかいを子どもに見せたくない、そう思ってとにかく私は近くにあった自分の財布だけを持って走りました。

そして実家の近くの不動産屋さんに行きました。

「どんな部屋でもいいので貸してください」と。

財布しか持ってないうえにきっと髪も振り乱れていたでしょうから、不動産屋さん怖かったでしょうね(笑)←笑いごとじゃない。

不動産屋さんは事情を真摯に聞いてくださいました。

ただ、当時は今のように保証会社システムがあまりなく、親が連帯保証人になる場合が多かったんです。

私は「親には言いたくないんです」と言いました。

お前が決めたことなんてダメになるに決まってると言われる、そら見たことかと言われるに違いないと。

じゃああの家にこれから帰るのか?無理ですよね。

不動産屋さんに説得され仕方なく母に連絡をしました。

母は当時姉夫婦と同居をしていました。

母は驚き、二度と私をあの家に帰らせることはありませんでした。

そして子どもを取り返しに行こうといい、姉の旦那さんを連れて一緒に行ってくれ、私の代わりに交渉してくれましたが、元旦那は断固として子どもを渡しませんでした。

暴れられたら困るということでその場は退却しました。

彼のしたことは殺人未遂です。

警察を呼べばよかったことはわかっていましたが、彼に前科がついたら子どもが警察官になりたいといった時に足かせになってしまう…そんなことを考えて通報することができませんでした。

とにかく子どもが将来困るようなことは避けたかった。

その後私はアパートを借りる事ができました。

しかし、彼が働かない、ギャンブルなどが原因でできた借金は私名義のものでした。

弁護士に相談するも、彼はブラックリストに載っている人だったのです。

私がDVによる精神不安定の状態にあることもあり、弁護士からはこどもを諦めるように言われました。

「あの相手では裁判まで行く可能性もあるし、なによりそこまであなたが持ちこたえられませんよ」と。

私自身もそれはわかりました。

わかってはいるけれど…なぜあちらの有責事項なのに私が借金を抱え、子どもを引き取ることを諦めなければならないのか?

自分だけの家族が欲しいと思ったことがそんなにいけないことなのか?

もっと相手を知ってから結婚しなかった自分がいけないのかもしれないけど、それにしたって神様ひどくないですか?

いろんな気持ちが頭をめぐりました。

アパートの部屋はテレビもない。

何度首を吊ろうと思ったかわかりません。

ですが不動産屋さんはとても親身になってくれて大家さんに私のことを交渉してくれました。

そして受け入れてもらっているのにこの部屋で死ぬなんてやっぱりできないな、とか。

よくよく考えてみると死に場所って迷惑かからない所なんかないんですよね。

私は借金をどうにかするためにキャバ嬢の仕事を始めました。

昼の仕事ではとうていどうにもできなかったから。

今思えばですが、インターネット環境がいまよりつたないせいもありますがそれにしたって私は不勉強だったなと思います。

知らないことが多すぎましたね。

だけど当時の私は目の前のことで一生懸命でした。

離婚はまだできておらず、とにかく金融会社からの督促の電話が来るのが嫌で嫌でお金のことばかり考えていました。

シニタイ、シネナイ、オカネハラワナイト…

DVによる情緒不安定さは今思えば本当におかしかったです。

落ちたハンカチを拾ってくれただけでとんでもなくいい人に見えるくらいに。

キャバ嬢の仕事でにっちもさっちもいかない状態だった私は飲食店の仕事を始めました。

【神様なんかいない、信じられるのは、最後に自分を守るのは自分だけ。】

悔しさをバネに生きていました。

飲食店の事務のお姉さんに愚痴をポロリと言った時、お姉さんは私に【債務整理】というものがあることを教えてくれました。

債務整理の弁護士は私にこう言ってくれました。

「まだ23歳、借金が終わってもまだ28歳、まだまだやり直せるから」と。

債務整理のおかげで私はようやく電話の着信音におびえずに眠ることができるようになりました。

そしてとうとう離婚することができました。

離婚の決定打はつまるところ私がもう何もいらないといったからです。

「アンタと縁が切れるならもうなにも要求しない」

子どもは諦めるし、借金はそのまま私が返すということです。

それほどまでにもう限界でした。

母は私をひどくなじりました。子どもを諦めるなんて人でなしだと。

そうでしょうね。母は自分が子どもたちを引き取っているわけですから。

ただ、どうしても別れたいという気持ちはわかる、とつぶやいていました。

父との間に何があったんでしょうね。

私は離婚ができることにほっとしながらも、子どもに結局私と同じような片親の家庭にしてしまうこと、幸せにしてやれなかったこと、子煩悩であるとはいえこんな男に渡すこと…それらについては本当に苦しみました。

子どもと会う最後の日、私は二人っきりになった子どもに対して謝りました。何度も。

まだ二歳で何言ってるかわからなかったとしても、私のことを忘れてしまうとしても、自分が内緒にされ続けてきて腹を立てたことを思い出し、自分の子どもにはちゃんと伝えたいと思って謝りました。

子どもは小さいなりにも空気でわかったのか、別れ際いつもと違う泣き叫び方をして元旦那に連れていかれました。

今書きながら思い出して涙が出てしまいました。

断腸の思いってこういうことをいうのでしょうね。

その後の元旦那の話によるとしばらくの間子どもは夜静かに涙を流しながら「ゴメンネ」とつぶやいていたそうです(涙

それからの私はまさに抜け殻のように生きました。

シネナイけど生きるのがシンドイ、何のために生きていくの?

時間になったらただ身体だけが仕事にいく、というようなロボットのようにただ生きました。

ただぼんやり、「神様、どんな試練でも耐えますから子どもがどうか幸せに生きていけますように」とお願いしていました。

神様なんかいない、といったくせに、人間は都合がいいですね。

 

23歳以降

離婚が成立してすぐに私はストーカー行為に見舞われました。

明らかに家の前に誰かが滞在していた形跡、夜の郵便受けをあさる音、私の行動がすべて見られているなど。

気のせいかと思っていましたが徐々に私の周りの人間にも被害が及ぶようになりました。

ある日夜中私が車に忘れ物を取りに行こうと玄関を開けたところ寄りかかっている人がドア越しにいました。

夜中の3時。

私は声もでませんでした。(人間って本当に驚くと声出ないんだと思いました)

そのままドアを閉め、ただ朝になるのを待ちました。

その人は全く知らない人でした。

その後もおかしなことが続き、私は家から出ることが怖くなってしまい閉じこもるようになりました。

お化けより生きている人間のほうが怖いってこういう事か…と実感しましたね。

本当に本当に怖かったです。

この出来事はアパートに引っ越して4か月目くらいのことでした。

だから私には引っ越しをするようなお金はもうありませんでした。

しかし、私が友人の家に泊まれば友人宅の郵便受けをあさられ、知人とご飯を食べれば知人の電話に私に関わるなという知らない男からの電話がきたりするのです。

どうやって調べているのかもわかりませんが、友人らにも警察に相談したほうがいいのではないか、と言われるようになりました。

これ以上迷惑をかけることができない、でももう行くところもない。

外に出るのももう恐怖です。

私は家の電気すらつけることができない状態になり、毛布にくるまって過ごしました。

何日も過ぎたころ友人らが私と連絡が付かないことを心配し家に来ました。

そして私に夕飯を食べさせてくれました。

勤め先の事務員のお姉さんが事情を知り、「うちに来ない?」と言ってくれました。

そんなことをすればこの人まで危険に…と思いましたがお姉さんは諸事情で義理の兄宅で同居しており、安全だということでした。

離婚や借金、子どもなどいろいろなことでもう誰の事も信じられない、と思っていた私にお姉さんは言いました。

「今までが辛い人生だったかもしれないけど、身を挺してアンタを助ける人だって必ずいる。だから誰も信じないなんて悲しい事いわないで」

そしてお姉さんは私を家に招き入れてくれて本当にいろいろなことを助けてくれました。

ダメな時はきちんと叱り、励ます時は本当に親身になってくれました。

ストーカーもしばらくは明らかに尾行されているとわかるほどのときもありましたがだんだんと気配が消えていきおかしなことも起こらなくなりました。

お姉さんのおかげで私は付き合う人を見極めることが大切なんだということ、思いやりとか見返りを求めない働きなどたくさんのことを知ることができてとても感謝しました。

そして友達でも作ろうかな、という気持ちになることができました。

ほどなくして今の主人に出会います。

もう男はこりごり、だった私はお友達として付き合いつつも、やはり異性なので警戒していましたね。

主人はたくさんいろいろな話を聞いてくれて受け入れてくれました。

主人とのなれそめはこっぱずかしいので割愛しますが、お付き合いをはじめ、その後お姉さんの家から出て友人とルームシェアをしたりと生活はだんだん整っていきました。

離婚の傷はまだまだ大きかったけれど、時間薬に頼ろうと思ってました。

正直なところ、メンタルケアを受けるお金がなかったし今みたいになんでも調べられる環境でもなかったのでメンタルケアを受ける、という考えがありませんでしたね。

今となれば受けとけばもっと早くいろんなことが整っただろうなと思ったりしますが。

ただ、【感謝をすることが大切】なのかもしれないとなんとなく思うようになりました。

助けてくれたお姉さんもそう、ルームシェアをした友人もそう、主人もそう…そしてお店の人からお釣りをもらう時やなにかあったときに「ありがとう」を言うと嬉しそうな顔をするんです。

たった一言のありがとうに人を笑顔にする力があるんだなとか、これまで無表情で生きてきたけど、自分の気持ちを伝えることは大切なんだなとか、いろいろなことを思うようになりました。

 

27歳以降

27歳の秋、今の主人と結婚しました。

一度目の結婚のあとあれほど結婚する前に同棲する必要性について痛感したはずなのに、「今回は長く付き合ってるから…」ととても気の合う人だし私を一度も怒鳴ったことがないし、と思い結婚したのですが…

色々問題がありました。

一度目の失敗がなかったら別れていたかもしれません。

ただ、自分も含め完璧な人間などいない、と考え歩み寄る、再構築していこうと考えました。

正直人によって許せる所、許せない所は違いがあると思います。

お互い様なところだってたくさんあります。

夫婦の形はそれぞれ、妻は、夫は○○であるべき、みたいなべき思考などいらないのです。

お互いがお互いを受け入れて思いやることができればそれでいいのです。

3人の子どもを授かり、自分の居場所を見つける事ができました。

その後は働きに出ることになり保育園に子どもを預けましたがお迎えが最後になることがないように職場を選びました。

全ての選択が、自分の幼少期からつながるものでした。

年子で子どもたちを産んだのも、かつての自分のような寂しさを抱かせたくなかったからです。

今度こそ、子どもたちを、家族も自分も幸せになりたかった。

 

30代~心の闇と向き合う

持ち家に住み、こどもたちと主人と過ごし、明日のご飯に困ることもないやっと手に入れたはずの平凡な生活。幸せな生活。

そのはずが、私の心には闇がありました。

幸せなんです。だけど。

幼少期ずっと一人だったからずっと人と一緒にいることが辛い事に気が付いちゃったんです。

そしてそんな自分を責めてしまいました。

ずっと私は私の味方になれなかった。

自分の至らないところをわかってはいても、直すこともできず、かといって家事をさぼったりすれば自分を責めるのです。

仕事では自分に内容が合っていたのでしょう、評価をされるようになりました。

ですがどんなに褒められても、何人から言われても、頭の中の自分が否定するのです。

「他の人もこのくらいできてるよ」「みんなで言うなんてどっきりなんじゃないの」

「必要とされてこなかったのに調子に乗るんじゃないよ」などなど…

頭の中に黒い人と白い人がいて黒い人は私を罵るのです。

他人から呆れられるほど、私は私に自信がありませんでした。

自己受容も自己肯定もできていないから、他人を褒めるのもとても下手でした。

悪い意味でのことなかれ主義でした。

もうヒトと争うのはうんざり、波風をできるだけ立てたくない…。

私はやっぱり人としてダメな人間なんだ。なんでこんななんだろう。

こんなこと思ってるママさん他にいないよなきっと…などなどネガティブ思考のオンパレード。

そうこうして日々を過ごすうちに変化が訪れました。

肌感覚だったのですがネガティブがネガティブをさらに引き寄せている、そんな気がしたのです。

類友、とかいうじゃないですか。

あれと同じでサイクルのようにポジティブに解釈するとポジティブなことがやってくるような。

「ありがとう」はすでに口癖になっていましたし、私は自分と向き合うことを考えるようになりました。

私はもともと人体が好きだったのでよく脳科学や細胞に関する本などを読んでいました。

メンタルケアとかトレーニングとか、最初の内はよくわかっていないまま、ただの感覚で良さそうな感じを感じることができたものを実践していくようになりました。

どちらかというとスピリチュアルよりも科学者脳の私は自分自身で実験していくことで成果への根拠を根強いものにしていくところがあります。

また、仕事などに関しても見方を変えました。

他人のことを目に入れないことにしたんです。

自分の今やることだけに最善を尽くす、というスタイルで仕事をしました。

隣の席の人さえ何をしているのかわからないほど自分のやるべきことだけに集中しました。

そしたら最善を尽くすという姿勢を褒められることも増え、最初は受け止められなかった褒め言葉も受け入れられるようになっていきました。

 

そして現在へ

メンタルトレーニングとして自分に行ってきたことを継続していったことで結果的には脳の神経回路のトレーニングに役立ち、私は月日が経つにつれポジティブ思考になっていきました。

落ち込むときだってもちろんあります。

ネガティブ思考は危険回避という観点から考えたら重要なことなので決してネガティブを完全に失くします、ということではありません。

ただ、クヨクヨし続けることはなくなりましたし、気持ちを持ち直すなどのメンタルのコントロールがとても上手になりました。

【根拠のない自信】これけっこう大事です。

なんとかなるって思ってるといいですよ。

人体の面白さを感じつつ、ある本に催眠療法でパニック障害やメンタルの不調がとてもよくなった方のお話がありました。

そこで催眠療法に興味を持ち、体験に行き、あまりに興味深く面白かったので資格を取りました。

ヒプノセラピーは私の過去への気持ちを解放してくれました。

そして今なお私自身の心をより良いものにつなげていってくれます。

おかげで今は人と話をすると「めぐみさんは本当にポジティブだね」と言われるようになりました。

今では自己肯定感も高く持てるようになり、自分の容姿がどうであれ、悪いところもいいところも、外見内面両方コレが私、私は私でいいのです、と思えるようになりました。

私が生きることの素晴らしさを語れる日がくるなんて、という気持ちです。

これからは米国催眠士協会認定ヒプノセラピストとして、過去の自分のような人、今がしんどい人の悩みに寄り添って一緒に頑張っていこうと思います。

本当に長くなってしまい申し訳ありません。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

さいごに

今あなたはスマホまたはPCを開いていますね。

そしてラボハーツのHPのページをクリックしてくれましたね。

そしてこのページを最後まで読んでくださいました。

ということはあなたはもうメンタルケアをするための心の準備ができているという事です。

あなたは自分の心の為に行動できています。

とても素晴らしい事ですよ。

お会いできる日を楽しみにしております。

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